ロサンゼルス・レイカーズに
生涯を捧げた男
NBAを見た事がない人でもコービー・ブライアント選手の名前を聞いた事がある人が多いのではないでしょうか?
Kobe Bean Bryant、彼の名前は日本の"神戸"に由来されていると言われています。実際コービーの父が神戸の名前から名付けたとされており、コービーも神戸の大使を務めていた時期がありました。日本人のファンも多く、日本とも縁のあるプレーヤーの1人です。
父が元NBAプレーヤーだった事から幼少にバスケットボールを始め、体格も198cmと恵まれたコービーは若い時からNBAを目指す様になります。1996年にドラフト13位、わずか17歳でロサンゼルス・レイカーズに入団します。それからコービーは現役20年間をロサンゼルス・レイカーズに捧げました。
レイカーズで5度の優勝を成し遂げたコービーの背番号8と24は永久欠番としてレイカーズのステイプルズ・センターに飾れらる事に決まり、セレモニーが2017年12月18日に行われました。コービーは同一人物で2つの背番号が永久欠番に認定された初の選手になりました。
NBA《アメ本²話》コービーの永久欠番セレモニーでのスピーチ(2017年12月)
コービーは引退セレモニーで夢を追いかける事の大切さを伝えてくれました。努力すれば、夢が叶わなくとも、素晴らしいものがそこに待っていると教えてくれています。
NBA選手で現役を1つのチームで過ごす選手は決して多くありません。マイケル・ジョーダン選手もブルズで長いキャリアを過ごしましたが、一度引退後に復帰したときは、ワシントン・ウィザーズでもプレーをしています。
コービー・ブライアント選手は20年間の長いキャリアの間、辛い時も好調の時もずっとレイカーズの一員として選手生涯をロサンゼルス・レイカーズで遂げました。ロサンゼルス市もコービーのチームと市への貢献を称え、彼の2つの背番号を足した8月24日を『コービー・ブライアントの日』として市の記念日に制定しています。
彼のキャリアを振り返り、レイカーズの歴史を見ていきたいと思います。
背番号8番
コービーが選ばれた1996年のドラフト1位には、アレン・アイバーソン選手が指名されています。4位にはステフォン・マーブリー選手、5位にはレイ・アレン選手が選ばれた激戦の年になります。
コービーは18歳でNBAにデビュー、当時の最年少NBAデビュー記録になります。その年のNBAダンクコンテストにも出場して、最年少優勝を成し遂げるなど、レイカーズ入団後からNBAで強烈な印象を残しました。
(1997年ダンクコンテスト)
Kobe Bryant - 1997 NBA Slam Dunk Contest (Champion)
鮮烈なNBAデビューシーズン後は、レイカーズの主力として活躍していたシャキール・オニール選手(シャック)と共にレイカーズを徐々にリーグ屈指のチームに導いていきました。
コービーとシャックのコンビは得点力が高くNBAでも歴史に残るコンビとして記憶されています。2000年にコービーはレイカーズで初のNBAチャンピオンに輝きその後もシャックとのコンビで3年連続NBA優勝を果たします。
コービーとシャックはNBAで3年連続優勝するも仲が決してよくなかった様です。3年連続でシャックがファイナルMVPに選ばれたことやチームがシャック中心で回っていたことにコービーが納得できなかった事で2004年にデュオは解散、シャックが移籍する形になってしまいます。
シャック移籍後は、コービーがチームのスコアラーとして試合をコントロールする様になります。2005−2006年シーズンのトロント・ラプターズ戦では1試合81得点を記録して、周囲を驚かせました。たが、チームは好調ではなくプレーオフで勝つ事ができずファンやメディアから、コービーのプレーが自己中心的すぎるなど批判を浴びる様になってしまいます。
(コービー × シャック 最強コンビ全盛期)
Kobe Bryant & Shaquille O'Neal - Brotherhood
(ドラフト1位アイバーソンとコービーの接点)
背番号24番
シャックが移籍後、チームとしてNBA優勝ができなかったコービーは自身の背番号を2006−2007年シーズンから24番に変えました。背番号24番はコービーが高校の時につけていたものです。
コービーは意識の違いで背番号を変えたとコメント、”8番はスタートでありNBAで旗をあげ、周りにリーグのベストプレーヤーになっていく事を証明するための時期だった”と説明し。24番は"そこから先の成長で、家族や嫁、娘を持ち、チームでもベテラン選手として若手ではなくなった、物事は変化していく”と説明していました。
ボストン・セルティックスと因縁のファイナル対決
2006年、2007年シーズンでコービーはシーズ試合平均得点王と年間最多得点の両方を受賞、NBA歴代でも最高のスコアラーとして認識されていくようになります。チームはコービーの活躍と共に勝ち上がり2008年プレーオフではライバル セルティックスとファイナルで対決しました。
レイカーズとセルティックスは1980年代にNBA首位争いをしていた2チームでライバル関係にあると認識されています。セルティックスとレイカーズのファイナルは例年より盛り上がり、歴史的な一戦になりました。
レイカーズを向かい打つセルティックスはBIG3(ビッグ3)と呼ばれていた、ポール・ピアース選手、レイ・アレン選手、ケビン・ガーネット選手がチームの中心でした。さらにポイントガードとして、ロンド選手もベンチから交代で出場してくるメンバーの厚さでシーズン中から別格の活躍を見せていました。
レイカーズは初戦を落としペースをセルティックスに奪われると、ホームで勝利しても流れを覆せずセルティックスにずるずる負けてしまいます。最終第6試合目でも大量得点を許し2−4でファイナル優勝をセルティックスに奪われてしまいます。コービーにとっては得点王を獲得したシーズンのプレーオフだけに悔しい結果になったでしょう。
2008 NBA Finals - Los Angeles vs Boston - Game 6 Best Plays
ファイナル2連覇
レイカーズの快進撃は2008−2009年シーズンから始まります。シャックが抜けて以降インサイドが脆かったレイカーズはパウ・ガソル選手の獲得と若手アンドリュー・バイナム選手の成長で、中がしっかりした上にコービーもメンターとしてチームをリードしていく様になり、2009年、2010年NBAプレーオフファイナル2連覇を達成します。
2009年にコービーもようやくファイナルMVPに輝き、2010年も続けて2年連続ノミネートされます。優勝後は元チームメイトだったシャックからも祝いの言葉が寄せられ、その後二人の仲も改善されたと言われています。
コービーは練習嫌いだったシャックがもし体型を保ちコートで一緒にずっとプレーする事ができていればもっと多くの優勝リングを手に出来ていたとコメントしていた事があります。シャックとの練習に対する姿勢やコンディション調整に対する意見の違いから二人のすれ違いがあった様です。もっと長い間、二人がレイカーズにいればNBAの歴史に残る戦績を残す事が出来た事のは間違い無いでしょう。
シャックが移籍後、背番号を24番に変えて2度のNBA優勝とさらに10回のオールスター出場を記録しているコービーは8番でも24番でもNBAの歴史に残る活躍を見せてくれました。
マイケル・ジョーダンとコービー・ブライアント
コービーがNBAデビューした当時、ジョーダンはシカゴ・ブルズで2度目のNBA3連覇を成し遂げる時期でした。
ルーキーのコービーをジョーダンが圧倒する形でした。それから2年目、3年目とコービーがNBAで経験を積むにつれ、二人の直接対決は激しくなっていきます。
バスケットボールの神様と呼ばれていたジョーダンにコービーは果敢にチャレンジして、ずっと憧れだったジョーダンのプレーを肌で感じながら自分のスキルを試していました。
MJ vs Kobe
— ClutchTimez (@HoopNews_Trend) 2019年12月17日
22年前の対決😳
若いコービーがジョーダンに挑戦💪
お互い30得点以上🔥
試合中に何話してるか気になる👀#ジョーダン #コービー #レジェンド対決#やっぱジョーダンやばい😭#レイカーズ #ブルズ #バスケ最高😍 https://t.co/c1RYuxguJf
ジョーダンに最も近かった選手はコービーでは無いかと言われるほど、二人はよく比較されます。コービーが81点を記録したシーズンでは得点力に関してはコービーの方が優っていると話すコメンティターも多いです。
記録としてはジョーダンがNBA6回優勝+ファイナルMVP6回獲得しており、コービーよりも多くのリングとMVPを獲得しているわけですが、実際の試合ではお互い譲らない展開を見せていました。
コービーはジョーダンを見て育ったと言っています。ジョーダンのプレースタイルに似ている部分が多くあると感じます。ジャンプシュートやハイポストでの1on1はかなり似ています。
2人の違いは精神力にあると考えられます。ジョーダンはリーダーシップが強くチームが苦しい時にしっかり支えれるメンターとしても高い評価を得ていました。逆にコービーは、プレーでチームを引っ張る傾向がありました。時として空回りしてしまい独り相撲になってしまう試合も見受けられ、引退間際のコービーは周りの若い選手と協調できていなくて、レイカーズも2012年からは不振が続きました。
プレーヤーとしてはお互い超一流だったが、リーダーとしては、ジョーダンの方が上手な印象が強いです。しかし、バスケットボールの神様とされるジョーダンに一番近かった男はコービー・ブライアントでしょう。
コービー引退試合
2015-16年シーズンで引退を表明していたコービー・ブライントの引退試合はレイカーズの本拠地ステイプルズセンターで行われました。4月16日2016年に行われたユタ ・ジャズ戦でコービーは42分出場しチーム最多の60得点を挙げレイカーズを逆転勝利に導きました。
自身のキャリアでも3位に残る記録で、NBAチャンピオン5回にNBA歴代累計得点記録3位である実力を引退試合でも発揮しました。
シーズンを通して調子が良くなく、衰えと怪我に悩まされ続けていたコービーですが引退試合で60得点の活躍を見せる勝負強さとスター性。NBA選手の中でも突出した存在だとを再証明して、レイカーズでのキャリアを終えました。
”マンバ”と呼ばれたコービーの引退は非常に惜しまれましたが、彼のプレーや選手としての活躍は今後もNBAファンには忘れなれぬ記憶になります。